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嵯峨の大覚寺/京都市右京区嵯峨にある寺・真言宗大覚寺派の大本山・勅許1100年の時点における本山の現況を詳細に記録して後世のために残しておく
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昭和53年 83p 定形外規格外での発送となります。追跡番号などはありません。
大覚寺
だいかくじ
京都市右京区嵯峨(さが)大沢町にある寺。真言(しんごん)宗大覚寺派の大本山。山号は嵯峨山。正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡(もんぜき)と称し、嵯峨御所ともいう。本尊は五大明王。平安初期、嵯峨天皇は当地に離宮をつくり、譲位後は仙洞(せんとう)御所とし嵯峨院と称したが、811年(弘仁2)に空海に勅して五大明王像を刻し、五大明王の秘法を修せしめた。818年(弘仁9)春、疫病流行の際、天皇は紺紙金泥(こんしこんでい)の『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を書写して心経堂を建て、空海が奉供した。この縁でいまでも心経写経を進めている。876年(貞観18)嵯峨天皇の皇女正子内親皇(淳和(じゅんな)天皇皇后)が嵯峨院を譲り受けて仏寺に改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂(こうじゃく)法親王が開山となり、以後、代々法親王が入った。1268年(文永5)後嵯峨(ごさが)上皇が、続いて亀山(かめやま)法皇が入寺。また1308年(延慶1)には後宇多(ごうだ)法皇が入寺して伽藍(がらん)の造営に努めたので、大覚寺法皇と称せられ当山の中興開山とされる。亀山院、後宇多院の皇統に属する皇族が代々住持を勤めたので、この皇統を大覚寺統とよび、後深草(ごふかくさ)天皇の皇統である持明(じみょう)院統と勢力を二分し、南北両朝分立の原因ともなった。1336年(延元1・建武3)兵火により全焼、のち再建された。1392年(元中9・明徳3)南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の講和のおり、南朝の後亀山(ごかめやま)天皇から北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器が授受された歴史的舞台としても知られる。応仁(おうにん)の乱でふたたび焼失したが、豊臣(とよとみ)・徳川両家の外護(げご)によりしだいに旧に復した。江戸末期から明治初期にかけて衰退し、一時無住となったが、1876年(明治9)に宮中から200石を受けて復興し、1900年(明治33)に大覚寺派として独立した。
[祖父江章子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
ご挨拶
嵯峨天皇の聖蹟、弘法大師転法輪の地、大本山大覚寺が、 淳和太后の奏 請により、大覚寺の勅額を、清和天皇貞観十八年(八七六二月二十五日に、 ご下賜のご沙汰を拝してより、昭和五十年はちょうど一千百年に相当する。 よって、 本山にてこれを記念して諸種の事業を計画しているが、その中で 大覚寺の歴史と、大覚寺がもっている障壁画、古文書、仏像 仏画、工芸 美術、建築等の格調高い文化財を、それぞれ専門の諸博士にご執筆をお願 いし、「大覚寺」として一冊とした。あわせて勅許一千百年の時点における 本山の現況を詳細に記録して、後世のために「嵯峨の大覚寺」を刊行し、 残しておくことは、大覚寺の歩みを知るために大切なことである。
由来、大覚寺には、再三の宿融にあって、見るべき記録とてなく、往年の盛大さは、僅かに残る図面、断簡等にてしのぶのみである。これらの断 簡等は、後日集めて別に「大覚寺史料」として出版すべく着々と進捗してい るが、大覚寺は、輝かしい由緒あるにもかかわらず、昭和二十年の終戦当 時、当時の社会の状勢とともに疲労困憊の極にあった。たまたま高野山真 言宗の前総長で、東京高野山別院主監であった草繫全冝大僧正が、当時合 同していた高野山真言宗より選ばれて、大覚寺門跡に就任して晋山せられた。このことは、本山にとってはまことにしあわせ た。草繫門跡は、 明治の釈迦とまで称せられた聖僧雲照大和上の高弟で、高徳の方であった。 晋山後、当時一体であった高野山真言宗より離脱、古格に随って独立本山 となり、爾来鋭意、一身を捧げて大覚寺の興隆に努め、その護持のために 寝食を忘れて、伝承された華道の興隆発展に心魂をかたむけ、華道芸術学 院の創立、荘厳華の創設、事務の刷新、寺内の営繕、信徒の処遇、宗門徒 弟の育成等、大覚寺の今日の盛観を見る基礎を作られたのであった。 この 間、岩根智俊元事務長、草津宜浩前事務長および、故華務長辻井弘洲先生 をはじめ、現華務長長谷川菊洲先生、故森岡、故高木、故岡田、故岡村、 故美除等々華道の諸先生方のご功績もまた大であった。
今度の記念事業を執行するにあたっては、宗内耆宿および各役員、華道 理事および各役員、教授等の一致協力によって進められたことは感謝にた えない。
この間、嵯峨寮、宝物館、心経宝塔、華道芸術学院、女子寮の設立整備 等、目ざましいものがあった。特に、昭和二十六年夏の豪雨による観空寺 谷池の欠壊のため、寺域、建物が大被害を受け、一時は壊滅かと思われた が、故草繫門跡の陣頭指揮によって、見事に復興したことは、驚異であっ た。
この一千百年の記念すべき年にあたり、寺内、宗内、華道人、心経会員 等のご協力によって、嵯峨美術短期大学、東京会館、札幌別院の創設、重 要文化財の本尊襖絵、御物の嵯峨天皇御尊像、後宇多天皇の御遺告等の 模刻、模写、境内地の拡張整備、望雲亭の再建、華道の発展促進、心経運 動の充実、大覚寺史の刊行等々、ご協力たまわった各位に、ここに深甚感 謝の意を表する次第である。合掌。
昭和五十年一月
大覚寺宗務総長 味岡良戒
表紙小傷、小汚れ。ページ小黄ばみ。全体的にややよれ。もちろん読む分には問題ありません。
なお細部に至るまではチェックしきれない場合がありますので、書き込み・線引き・記名・蔵書印・値札等ある場合があります。ご理解の上、ご購入下さい。
大覚寺
だいかくじ
京都市右京区嵯峨(さが)大沢町にある寺。真言(しんごん)宗大覚寺派の大本山。山号は嵯峨山。正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡(もんぜき)と称し、嵯峨御所ともいう。本尊は五大明王。平安初期、嵯峨天皇は当地に離宮をつくり、譲位後は仙洞(せんとう)御所とし嵯峨院と称したが、811年(弘仁2)に空海に勅して五大明王像を刻し、五大明王の秘法を修せしめた。818年(弘仁9)春、疫病流行の際、天皇は紺紙金泥(こんしこんでい)の『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を書写して心経堂を建て、空海が奉供した。この縁でいまでも心経写経を進めている。876年(貞観18)嵯峨天皇の皇女正子内親皇(淳和(じゅんな)天皇皇后)が嵯峨院を譲り受けて仏寺に改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂(こうじゃく)法親王が開山となり、以後、代々法親王が入った。1268年(文永5)後嵯峨(ごさが)上皇が、続いて亀山(かめやま)法皇が入寺。また1308年(延慶1)には後宇多(ごうだ)法皇が入寺して伽藍(がらん)の造営に努めたので、大覚寺法皇と称せられ当山の中興開山とされる。亀山院、後宇多院の皇統に属する皇族が代々住持を勤めたので、この皇統を大覚寺統とよび、後深草(ごふかくさ)天皇の皇統である持明(じみょう)院統と勢力を二分し、南北両朝分立の原因ともなった。1336年(延元1・建武3)兵火により全焼、のち再建された。1392年(元中9・明徳3)南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)の講和のおり、南朝の後亀山(ごかめやま)天皇から北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器が授受された歴史的舞台としても知られる。応仁(おうにん)の乱でふたたび焼失したが、豊臣(とよとみ)・徳川両家の外護(げご)によりしだいに旧に復した。江戸末期から明治初期にかけて衰退し、一時無住となったが、1876年(明治9)に宮中から200石を受けて復興し、1900年(明治33)に大覚寺派として独立した。
[祖父江章子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
ご挨拶
嵯峨天皇の聖蹟、弘法大師転法輪の地、大本山大覚寺が、 淳和太后の奏 請により、大覚寺の勅額を、清和天皇貞観十八年(八七六二月二十五日に、 ご下賜のご沙汰を拝してより、昭和五十年はちょうど一千百年に相当する。 よって、 本山にてこれを記念して諸種の事業を計画しているが、その中で 大覚寺の歴史と、大覚寺がもっている障壁画、古文書、仏像 仏画、工芸 美術、建築等の格調高い文化財を、それぞれ専門の諸博士にご執筆をお願 いし、「大覚寺」として一冊とした。あわせて勅許一千百年の時点における 本山の現況を詳細に記録して、後世のために「嵯峨の大覚寺」を刊行し、 残しておくことは、大覚寺の歩みを知るために大切なことである。
由来、大覚寺には、再三の宿融にあって、見るべき記録とてなく、往年の盛大さは、僅かに残る図面、断簡等にてしのぶのみである。これらの断 簡等は、後日集めて別に「大覚寺史料」として出版すべく着々と進捗してい るが、大覚寺は、輝かしい由緒あるにもかかわらず、昭和二十年の終戦当 時、当時の社会の状勢とともに疲労困憊の極にあった。たまたま高野山真 言宗の前総長で、東京高野山別院主監であった草繫全冝大僧正が、当時合 同していた高野山真言宗より選ばれて、大覚寺門跡に就任して晋山せられた。このことは、本山にとってはまことにしあわせ た。草繫門跡は、 明治の釈迦とまで称せられた聖僧雲照大和上の高弟で、高徳の方であった。 晋山後、当時一体であった高野山真言宗より離脱、古格に随って独立本山 となり、爾来鋭意、一身を捧げて大覚寺の興隆に努め、その護持のために 寝食を忘れて、伝承された華道の興隆発展に心魂をかたむけ、華道芸術学 院の創立、荘厳華の創設、事務の刷新、寺内の営繕、信徒の処遇、宗門徒 弟の育成等、大覚寺の今日の盛観を見る基礎を作られたのであった。 この 間、岩根智俊元事務長、草津宜浩前事務長および、故華務長辻井弘洲先生 をはじめ、現華務長長谷川菊洲先生、故森岡、故高木、故岡田、故岡村、 故美除等々華道の諸先生方のご功績もまた大であった。
今度の記念事業を執行するにあたっては、宗内耆宿および各役員、華道 理事および各役員、教授等の一致協力によって進められたことは感謝にた えない。
この間、嵯峨寮、宝物館、心経宝塔、華道芸術学院、女子寮の設立整備 等、目ざましいものがあった。特に、昭和二十六年夏の豪雨による観空寺 谷池の欠壊のため、寺域、建物が大被害を受け、一時は壊滅かと思われた が、故草繫門跡の陣頭指揮によって、見事に復興したことは、驚異であっ た。
この一千百年の記念すべき年にあたり、寺内、宗内、華道人、心経会員 等のご協力によって、嵯峨美術短期大学、東京会館、札幌別院の創設、重 要文化財の本尊襖絵、御物の嵯峨天皇御尊像、後宇多天皇の御遺告等の 模刻、模写、境内地の拡張整備、望雲亭の再建、華道の発展促進、心経運 動の充実、大覚寺史の刊行等々、ご協力たまわった各位に、ここに深甚感 謝の意を表する次第である。合掌。
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