1998年 厚さ0.3㎝程度

林 紀一郎
不可思議な展覧会を開くことになった。 人間も、 美の思想も、 造形のありようも、ともに不可思議な、 一人の表現者 の50年の造形の軌跡を示す展覧会である。 1922年、 名古屋市に生まれ、 今年76才、 現在瀬戸市に住み、 “心宇宙”の“気” を心身に感応しつつ絵画からやきもののオブジェ、舞台美術、さらにパフォーマンスに至る幅広い表現活動を続けてい る水谷勇夫の回顧展である。 不可思議といえば 《終りから始りから》というサブタイトルも不可思議である。 "から" みれば、芸術の表現行為はまさに終わる処から問題が生じ、始まる処から問題を抱えている、といえるだろう。次第に “から”から“から”とは何を意味するのか。 つねに出発点に立ち帰ること、なのか。 考えて
から“まで” ではなく、
面倒な理屈になってくるので、この辺で本題に移りたい。
さて、“形態生命体”という言葉は水谷勇夫の造形表現のありようを眺める時のキーワードといえる。辞書にはない。 水谷勇夫の造語である。英語にはバイオモルフィック (bio-morphic) つまり、“生命形態的”という用語があるが、これ は絵画や彫刻で、特定の有機体を描いてはいないのに、そのイメージを呼び起こす、という意味である。ジャン・アル プの絵画や彫刻などはその例証の一つだろうか。 しかし水谷の "形態生命体”はいささか意味を異にする。
《森羅万象が織りなす様々な姿や形に、人間の鋭利な意識が絡まり接吻するとき、その形からはまるで生き物のよう な視覚言語が発信されてくる。それは私も知らない広大な心宇宙のかなたからやってきて、私の手を通して、私の目の 前に出現する。 (略) >
これが水谷勇夫の“形態生命体” である。 この「形ある生命」あるいは「生命ある形」は水谷勇夫という表現者が自 ら創り出したものではない。 パウル・クレーがく私の腕は遥かない意志の力の道具にすぎない〉 と語ったとほぼ同じ ような意味で、水谷勇夫の手から造りだされるものは、彼の言葉を借りるならば“心宇宙のかなたからやってくる”の である。 従って、例えば、この度の展覧会の会場でおそらくハイライトとして鑑賞者たちの眼と心を捉えるであろう「空 色音形気」と題する球体状の大作 (300.0×270.0cm) は、水谷勇夫がこれを創り出したというよりも、彼の所謂“心宇宙" のかなたから発信された形態生命体そのものの顕現とみることができる。換言するならば、水谷勇夫の作品であって、 水谷勇夫の作品ではない、ともいえるのだ。
空中の一点に方形の吊り天井が組まれ、そこから巨大で透明なクス王状の球体が宙吊りにされているさまを仔細に眺 めるとき、それは、さまざまな不定形の白い陶片群が天井から吊るされた無数のテグスに結着して、その全体像のシル エットが球体とみまごうように構成されたものであることを理解するだろう。さらに、花びらにも雪片にも骨片にもみ える陶片群が、 球体の中心部に吊るされたほぼ等身大の女体 (?) を取り囲んでいるさまを眺めるとき、そこにくりひ ろげられているのは、いわば宇宙のかなたから発信されてきた形態生命体たちによるエロス(愛)とタナトス(死)の 秘儀と観ずることだろう。あるいは、大日如来を本尊とする胎蔵界曼陀羅の立体的構造体とみなすこともできよう。

表紙小傷、小汚れ、薄い折れ線。ページ小黄ばみ。もちろん読む分には問題ありません。

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