1981年　280P

梅若家の人々
明治の三名人と云われた宝生九郎、梅若実、桜間伴馬のうち、梅若実だけは、その舞台姿を私は知らない。 僅かに その葬式に、父の膝に乗せられて、人力車で品川のお寺に行った記憶のみが残っている。あんなに立派な芸の持主で ある、万三郎、六郎の兄弟を育てた人であってみれば、勿論名人と云われるに適わしい芸の人であったに違いない。 然し二人の子息の芸風はまったく異っていた。万三郎さんは真っ向から堂々と押して行かれて、正に輝く太陽の趣 だったが、六郎さんは巧緻きわまる技巧で、見る者聞く者を魅了した。観世流と云えば後者の方がそれらしいと今の 人たちは思うかも知れないが、万三郎さんの構えは肱を高く円く張って、私たち喜多流から見ても非のうちどころの ないものだった。いつかその頃のふちの内弟子たちがその仕舞を見て、うちの先生(亡父六平太)の構えとそっくり だと驚いていた。論より証拠、最近まで残って居られた、素人の女のお弟子さんの何人かの仕舞を私は拝見したが、 やはり構えを高く、立派な舞を舞われていた。
万三郎さんの長男の美雄さんは、私よりいくつかの年長だったが、子供心にも私の競争心をあおる、鷹揚な品位あ る芸風だったが、惜しくも夭折されてしまった。
私の父六平太も、万三郎、六平太と並び称されたが、たった一度この万三郎さんに就いて告白したことは「何しろ 向うは大兵、自分はこんなにチビ、声はあんなに、はりのある立派な声に対し、自分は難声、その上あちらには三井 家をはじめ、錚々たる後援者に取巻かれて居るのに、流儀は維新でその基盤とする大名がすっかり能どころでなくな ってしまった。どこから見てもかないっこはない、容易ならざる大敵だった」と涙ぐんでの述懐に、私は胸を打たれ てしまった。もっとも最後に「今はもう何ともなくなったがね」と一言附け加えた。この一言をどんな意味に取って 宜いのか、私は今も時々考えている。
実は私は、今思うと、亡父から先ず基本的なもの正しい形と、激しい気魄をじっくり仕込まれはしたが、
亡父はその基本的なものの上に、電光石火型と云われた鮮烈きわまる技の持主で、それは常人の真似出来るものでは なく、又真似をしたら、とんでもない結果になるものであった。それに気付いた私は、その胸を衝かれるような妙技 に触れまい触れまいとした結果、却って万三郎さんの真っ向平押し型を手本にするよう努めた。六平太的の、張旭の 狂草でなく、万三郎的な顔真卿の楷書であった。万三郎さんがそうであればあるほど、一方弟の六郎さんは益々繊細 巧の道を歩まれた。そしてそのまた息子さんの、二年前に亡くなられた六郎さんも、お父さん同様、天性の美しい 姿と美声を極度にあやつられて、能界の半ばの賞讃を博された。当時ある批評をする方が、多分その柔和さのためで あろうか、この親子の芸を猫にたとえ、然し息子さんは同じ猫でも爪の無い猫と揶揄したが、後年、その爪のないこ とが却って六郎氏を大成に導き、その少し弄し過ぎると思われた美しさが、少しも耳目に逆ろうことなく、 本当に珠 玉の境に達せられた。どうも本当は猫ではなかったように思われる。
この六郎氏とは、芸術院で度々お目にかかるようになり、遠くから見ていたその人柄が間違って居たことに気付い た。いかにも大店の御主人といった、誠実な方であった。 一方の万三郎家の後の、現万三郎氏に対しては、これも余 りお附合いはないのに、寧ろ介な位の正しい人と、陰ながら尊敬していたのと合わせ、梅若家三代にわたる一族方 の立派な芸も、みなその性格からの発展の結果で、一時一流を名宣り、その後観世流に復帰されはしたものの、殆ど 一流並みの扱いを受けて居ることも、決して偶然では無いと云うべきである。
喜多

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